ソビエト連邦の崩壊と北方領土問題:国家承継の法理と地政学的現実の分析
第1部 紛争の創生:第二次世界大戦末期の動向
北方領土問題の根源を論理的に解明するためには、まずソビエト連邦(以下、ソ連)が当該地域を占領するに至った歴史的・法的経緯を正確に把握することが不可欠である。この占領は単純な戦闘行為の結果ではなく、複雑な外交交渉、秘密協定、そして戦略的な時期を見計らった軍事行動が絡み合った産物であった。日本側が主張する占領の「不法性」は、まさにこの一連の経緯の中に根拠を見出すことができる。
1.1. 危うい中立:1941年日ソ中立条約の分析
1941年4月13日、日本とソ連はモスクワで日ソ中立条約を調印した 。この条約は、第二次世界大戦の激化という国際情勢の中で、両国の戦略的利害が一時的に一致したことの現れであった。条約の核心は、第1条で定められた相互の領土保全と不可侵の尊重、そして第2条で規定された、一方が第三国から軍事行動の対象となった場合に他方は中立を維持するという義務であった 。条約の有効期間は5年間と定められ、期間満了の1年前にいずれか一方が破棄を通告しない限り、自動的にさらに5年間延長されることになっていた 。したがって、この条約は法的には1946年4月まで有効であった 。
この条約がソ連にとって持った戦略的価値は計り知れない。当時、日本国内では陸軍を中心にソ連を攻撃対象とする「北進論」が存在したが、日本政府はこれを退け、東南アジアへの進出を目指す「南進論」を採用した 。この日本の戦略転換と中立条約の締結により、ソ連は東部国境の安全を確保することができた。その結果、1941年6月にナチス・ドイツがソ連に侵攻して独ソ戦が始まると、ソ連は極東に配備していた精鋭部隊をヨーロッパ戦線、特に首都モスクワの防衛戦に投入することが可能となった 。日本の条約遵守が、ソ連の対ドイツ戦勝利に間接的ながらも決定的な貢献をしたことは、歴史的事実として認識されている 。
一方で、日本側は条約を遵守し、ソ連の東部を脅かすことはなかった。この事実は、後のソ連による条約破棄と対日参戦の背信性を際立たせる上で、日本側の主張の根幹をなす重要な法的・歴史的背景となっている。
1.2. ヤルタ協定(1945年2月):秘密協定とその法的効力を巡る論争
1945年2月、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領、イギリスのウィンストン・チャーチル首相、そしてソ連のヨシフ・スターリン書記長は、クリミア半島のヤルタで会談し、第二次世界大戦の終結と戦後処理について協議した 。この会談で締結された合意の中で、特に日本との関係で重大な意味を持つのが「極東密約」とも呼ばれるヤルタ秘密協定である 。
この秘密協定において、スターリンはドイツ降伏後2ヶ月または3ヶ月以内に対日参戦することを約束した 。これは、日本の降伏を早め、連合国軍兵士の犠牲を減らしたいというアメリカの強い要請に応える形であった。その見返りとして、ソ連は極東における広範な権益を約束された。具体的には、(1) 外モンゴル(モンゴル人民共和国)の現状維持、(2) 日露戦争で日本に割譲された南樺太のソ連への「返還」、(3) 千島列島のソ連への「引き渡し」などが盛り込まれていた 。
この協定の法的な問題点は明白である。第一に、これは米英ソ三国間の秘密協定であり、当事国でない日本は何ら関与しておらず、その存在すら知らされていなかった 。国際法の基本原則である「条約は第三者を拘束しない」(
pacta tertiis nec nocent nec prosunt )に基づけば、ヤルタ協定が日本に対して何らかの法的拘束力を持つことはあり得ない。これは、後にアメリカ政府自身も公式に認めている見解である 。
第二に、この協定はソ連がまだ有効な日ソ中立条約を締結している最中に、その条約義務に明確に違反する対日参戦を約束したものであり、国際信義に反する行為であった 。当時、スウェーデン駐在武官であった小野寺信少将らがヤルタでの密約に関する情報を日本本国に打電したものの、大本営や政府中枢がこれを黙殺したとされるインテリジェンス上の失敗も指摘されている 。この協定は、法的な領土移転の根拠とはなり得ず、あくまで連合国首脳間の戦後処理に関する政治的方針を示したものに過ぎないというのが、日本の一貫した立場である。
1.3. 1945年8月:ソ連の侵攻と北方領土の占領
1945年8月、第二次世界大戦は最終局面を迎えた。広島(8月6日)と長崎(8月9日)への原子爆弾投下により、日本の敗戦は決定的となった。このような状況下で、ソ連はヤルタ協定に基づき対日参戦を実行に移す。
1945年8月8日、ソ連は日ソ中立条約が依然として有効であるにもかかわらず、一方的にこれを破棄して日本に宣戦布告した 。そして翌9日未明、ワシレフスキー元帥率いる150万を超えるソ連軍が、満州、樺太、朝鮮半島の国境を一斉に越えて侵攻を開始した 。この侵攻は、日本がポツダム宣言の受諾を巡って御前会議で議論している最中に行われ、日本の降伏決定を促す最後の一押しとなった側面もあるが、その主たる目的はヤルタ協定で約束された領土の確保にあった。
日本政府がポツダム宣言を受諾し、連合国に対して無条件降伏の意を伝えたのは8月14日(玉音放送は15日)である 。しかし、ソ連軍の攻撃はその後も止まらなかった。北方領土への侵攻が開始されたのは、この日本の降伏表明後である。ソ連軍は8月18日に千島列島最北端の占守島に上陸し、日本軍との間で激しい戦闘が行われた後、南下を続けた。そして、8月28日に択捉島に上陸したのを皮切りに、9月5日までに国後島、色丹島、歯舞群島を次々と占領した 。
ここで決定的に重要なのは、北方四島が占領された時点で、日本はすでに降伏を表明しており、戦闘行為は終結していたという事実である。四島の占領に際して、現地の日本軍守備隊は抵抗せず、占領は無血で行われた 。これは、ソ連による北方領土の占拠が、戦争の勝敗を決する戦闘行為の結果ではなく、戦闘終結後の混乱に乗じた「不法占拠」であるとする日本側の主張の核心的根拠となっている。この占領により、当時四島に居住していた17,291人の日本人島民は、故郷からの強制退去を余儀なくされた 。
これら一連の出来事は、ソ連の行動が周到な計画に基づいていたことを示唆している。日ソ中立条約は、ドイツとの二正面作戦を避けるために最大限利用され、その戦略的価値が失われた後は、ヤルタ協定という新たな地政学的利益を確保するための口実として破棄された。そして、日本の軍事的抵抗が事実上不可能なタイミングを狙って侵攻し、戦後の領土を確保したのである。この歴史的経緯こそが、北方領土問題が単なる領土紛争ではなく、国際法と国際信義の根幹に関わる問題とされる所以である。
表1:北方領土問題に関連する主要な出来事の時系列
第2部 中核となる法的問題:国際法における国家承継
「北方領土を占領したソ連は消滅したのだから、別の国であるロシアが領有権を主張するのはおかしいのではないか」という問いは、国際法の根幹に関わる鋭い指摘である。この疑問に答えるためには、「国家承継」という国際法上の専門的な概念を理解する必要がある。結論から言えば、国際社会の認識において、ロシア連邦はソ連と法的に「断絶した別の国」ではなく、その国際的な権利と義務を引き継ぐ「継続国」として扱われている。
2.1. 国家承継の定義:ある国家が他の国家に取って代わる時
国際法における国家承継(State Succession)とは、「ある領域の国際関係上の責任が、一国から他国へ取って代わること」と定義される 。具体的には、国家の併合、分離独立、解体、領域の一部割譲など、領域主権に変更が生じた場合に、先行国(Predecessor State)が有していた条約上の権利義務、国家財産、国家債務などが、承継国(Successor State)にどのように引き継がれるかという問題を扱う法分野である 。
国家承継のあり方については、大きく分けて二つの対立する原則が存在する。一つは、私法上の相続のアナロジーから、先行国の権利義務が包括的に承継国に引き継がれるとする「普遍的承継」の原則である。もう一つは、特に植民地から独立した新独立国に適用されることが多い「クリーン・スレート(白紙)」の原則(
tabula rasa )であり、これは先行国が結んだ条約等に原則として拘束されず、承継するか否かを選択できるという考え方である 。ソ連崩壊のケースがどちらに該当し、どのように扱われたのかが、本件の鍵となる。
2.2. 継続か白紙か:ソ連の「継続国」としてのロシア連邦
1991年のソ連崩壊は、15の構成共和国がそれぞれ主権国家となる「解体(dissolution)」と見なされる。この場合、すべての承継国が「クリーン・スレート」の原則に基づき、新たな国家として国際社会に登場するのが一つの考え方であった。しかし、現実にはそうならなかった。国際社会は、15の共和国のうち、ロシア連邦をソ連の国際法上の人格を継承する「継続国」(
État continuateur )として認めるという、極めて特殊な扱いを選択したのである 。
「継続国」とは、政府の形態、政治体制、国名、さらには領土に大幅な変更があったとしても、その国家の国際法上の人格(legal personality)は同一性を保って存続していると見なされる法的な地位である。これは、先行国が消滅し、全く新しい国家が誕生する「承継」とは区別される。
この地位が確立された背景には、いくつかの要因がある。まず、ソ連崩壊後の旧構成共和国自身による合意があった。1991年12月21日、ロシアを含む11の旧構成共和国は「アルマ・アタ議定書」に署名し、ロシア連邦が国連を含む国際機関におけるソ連の議席や地位を引き継ぐことを支持すると表明した 。これは、ソ連の権利義務を主張しうる他の共和国が、ロシアの特別な地位を認めたことを意味する。
さらに重要なのは、国際社会、特に大国がこの措置を事実上承認したことである。国際法では、ある事態に対して関係国が異議を唱えず、それを有効なものとして受け入れる「黙認(acquiescence)」も、法的地位を確立する上で重要な役割を果たす 。ロシアがソ連の地位を継承すると宣言した際、国際社会から大きな反対は起こらず、むしろ歓迎された。この背景には、後述する地政学的な現実、特に核兵器管理の問題があった。
2.3. ケーススタディ:国連安全保障理事会常任理事国議席の継承
ロシアがソ連の「継続国」であることを最も象徴的に示す事例が、国連安全保障理事会(安保理)の常任理事国議席の継承である 。国連憲章第23条には、常任理事国として「ソヴィエト社会主義共和国連邦」が明記されている 。憲章の条文上は、今なおソ連が常任理事国である。
しかし、1991年12月24日、当時のロシア大統領ボリス・エリツィンは国連事務総長宛ての書簡で、ロシア連邦が独立国家共同体(CIS)諸国の支持を得て、国連におけるソ連の加盟国の地位を「継続する」と通告した 。これを受け、国連では安保理の議席に置かれた「ソビエト社会主義共和国連邦」のネームプレートが、何らの公式な総会決議や憲章改正手続きを経ることなく、静かに「ロシア連邦」のものに差し替えられた 。
この手続きの法的正当性については、当時から現在に至るまで疑問が呈されている。特に近年、ウクライナ政府は、ロシアが正規の手続きを経ずに安保理議席を「簒奪」したと主張し、その地位の剥奪を求めるキャンペーンを展開している 。法理論的には、国連への新規加盟は安保理の勧告に基づき総会で決定されるべきであり、ロシアも同様の手続きを踏むべきだったという議論には一理ある。
しかし、法的な瑕疵の可能性にもかかわらず、国際社会はこの30年以上にわたり、ロシアがソ連の議席を占めることを事実上受け入れてきた。この一貫した国家実行(state practice)と黙認により、ロシアの常任理事国としての地位は、既成事実として国際法秩序の中に定着している 。
2.4. 示唆:ロシアがソ連の国際的権利と義務を継承する理由
以上の分析から、問いに対する直接的な答えが導き出される。ロシア連邦がソ連の「継続国」であると国際的に承認されている以上、ロシアはソ連の国際法上の人格をそのまま引き継いでいることになる。これは、国連安保理の議席や在外公館といった資産や権利だけでなく、ソ連が締結した条約上の義務や、未解決の領土問題といった「負の遺産」も同様に継承することを意味する。
したがって、北方領土を巡る日本との交渉において、交渉相手はソ連からロシアに代わったが、国際法上の当事者としての同一性は維持されている。ソ連の崩壊によって、領土問題が自動的に消滅したり、「白紙」に戻ったりすることはなかったのである。日本との領土交渉は、ソ連崩壊後、そのままロシア連邦政府へと引き継がれた 。
ユーザーの「ソ連とロシアは別の国ではないか」という感覚は、政治体制、イデオロギー、経済システムが劇的に変化したという事実を見れば、ごく自然なものである。しかし、国際法の世界では、国家の同一性を判断する上で、地政学的な安定の要請が優先されることがある。ソ連崩壊時に国際社会が直面したのは、数千発の核兵器を保有し、世界中に多大な影響力を持つ超大国をいかに秩序だって解体するかという喫緊の課題であった。もし15の共和国すべてが「クリーン・スレート」を主張し、ソ連の国際的地位が空白となれば、核管理や軍備管理条約の行方が不透明になり、世界的な安全保障上の危機を招きかねなかった。
このような状況下で、旧構成共和国と国際社会は、ロシアをソ連の責任ある継承者、すなわち「継続国」と位置づけることで、法的な安定性と予測可能性を確保するという、極めて現実的な選択をした。この地政学的判断が、結果として北方領土問題という特定の二国間紛争の法的枠組みを固定化させ、今日に至るまでロシアがソ連の立場を引き継いで領有権を主張し続ける法的根拠となっているのである。
第3部 戦後の法的迷宮:条約、宣言、そして解釈の相克
ロシアがソ連の「継続国」として北方領土に関する権利と義務を継承したという法的事実は、あくまで紛争の当事者が誰であるかを特定するに過ぎない。領土そのものの帰属の正当性を判断するためには、戦後に形成された一連の国際的な法的文書を詳細に検討する必要がある。しかし、これらの文書は意図的あるいは偶発的な曖昧さを含んでおり、日露双方に自らの主張を正当化する余地を与え、問題の解決を一層困難にしている。
3.1. サンフランシスコ平和条約(1951年): 「千島列島」の曖昧さ
1951年9月8日、日本はサンフランシスコで連合国48カ国との間に平和条約を締結し、主権を回復した 。この条約の第2条(c)項は、北方領土問題において極めて重要な条文である。そこには、「日本国は、千島列島並びに日本国が1905年9月5日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」と記されている 。
一見すると、この条文によって日本は千島列島の領有権を放棄し、問題は解決したかのように読める。しかし、ここには二つの重大な法的論点が存在する。
第一に、ソ連はこの条約への署名を拒否した 。国際法の原則上、条約の当事国でない国家は、その条約によって創設される権利を主張することはできない。サンフランシスコ平和条約は、日本が千島列島を「放棄する」と定めているだけで、その放棄先がどの国であるかを明記していない。したがって、日本側の立場からすれば、条約に署名していないソ連(およびその継続国であるロシア)が、この条文を根拠に千島列島の領有権を主張することは法的に不可能である 。
第二に、より根本的な論点として、日本政府は「そもそも北方四島は、この条文で放棄した『千島列島』には含まれない」と一貫して主張している 。この主張の歴史的根拠は、1855年の日魯通好条約にある。この条約は、択捉島とウルップ島の間に国境を画定し、択捉、国後、色丹、歯舞の四島が、ロシア領とされたウルップ島以北の「千島列島」とは異なる、日本固有の領土であることを両国が平和的に確認したものであった 。その後、1875年の樺太・千島交換条約で日本がロシアから譲り受けたのが、このウルップ島以北の18島(いわゆる北千島)である 。したがって、歴史的経緯に照らせば、北方四島は一度も外国領になったことのない日本固有の領土であり、サンフランシスコ平和条約で放棄した「千島列島」の範疇には入らない、というのが日本側の法的論理の核心である 。
3.2. 日ソ共同宣言(1956年):平和への道か、論争の火種か
領土問題が解決しなかったため、日本とソ連はサンフランシスコ平和条約後も正式な平和条約を締結できず、戦争状態が続いていた。この異常な状態を解消し、国交を正常化するために、1956年10月19日、「日ソ共同宣言」が署名された 。この宣言は、両国の国会で批准された、法的拘束力を有する国際条約である 。
この宣言の第9項が、領土問題に直接言及している。そこには次のように記されている。「日本国及びソヴィエト社会主義共和国連邦は、両国間に正常な外交関係が回復された後、平和条約の締結に関する交渉を継続することに同意する。この場合において、ソヴィエト社会主義共和国連邦は、日本国の要望にこたえかつ日本国の利益を考慮して、歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する。ただし、これらの諸島は、日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間に平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする」 。
この条文は、その後の日ソ・日ロ交渉の出発点でありながら、同時に最大の論争点ともなってきた。日本側は、この宣言によってまず歯舞・色丹の返還が確定し、残る国後・択捉の帰属問題を解決した上で平和条約を締結するという「四島返還」への道筋が示されたと解釈している。つまり、二島返還は最終解決ではなく、交渉の継続が前提であるという立場である 。
一方、ソ連およびロシア側は、この宣言をもって領土問題は最終的に解決済みであるという立場を取ることが多い。すなわち、平和条約を締結すれば二島は引き渡すが、国後・択捉については議論の余地はない、という「二島解決」論である 。
この宣言を巡る交渉の背景には、冷戦下の地政学的な駆け引きも存在した。交渉が大詰めを迎えていた当時、アメリカのダレス国務長官が、もし日本が国後・択捉の領有権を放棄してソ連と妥協するならば、アメリカは沖縄を永久に返還しない可能性があると示唆した、いわゆる「ダレスの恫喝」があったとされる 。この米国の圧力も、日本が「四島一括返還」の原則を堅持する一因となった。
3.3. その後の交渉:東京宣言から現在の停滞まで
1956年の共同宣言以降も、平和条約交渉は断続的に続けられてきたが、領土問題は常に最大の障害であり続けた。ソ連時代は、ゴルバチョフ政権末期に至るまで「領土問題は存在しない」という硬直した姿勢が続いた。
しかし、ソ連崩壊後のロシア・エリツィン政権下で、事態は一時的に進展の兆しを見せる。1993年10月、エリツィン大統領と細川護熙首相との間で署名された「東京宣言」は、画期的な文書であった 。この宣言では、両首脳が領土問題を「択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島の帰属に関する問題」と明確に位置づけ、これを「歴史的・法的事実に基づき、作成された文書及び法と正義の原則を基礎として解決」し、平和条約を締結するとの方針で合意した 。これは、ロシアが公式に「四島」の問題の存在を認め、その解決に向けて交渉することに同意したことを意味する。
さらに、2001年のイルクーツク声明では、プーチン大統領と森喜朗首相が、1956年の日ソ共同宣言を「交渉プロセスの出発点」としてその法的有効性を確認するとともに、東京宣言に基づき四島の帰属問題を解決して平和条約を締結するという共通認識を再確認した 。
これらの文書は、ロシアが少なくとも2000年代初頭までは、四島の帰属が未解決の問題であることを認めていたことを示している。しかし、その後プーチン政権が長期化し、ロシアの国力が回復するにつれて、その姿勢は再び硬化。「第二次世界大戦の結果、ロシア領となった」という主張が前面に出され、交渉は停滞し、特に2022年のウクライナ侵攻以降は完全に中断している 。
戦後の法的枠組みは、問題解決の指針となるどころか、解釈の余地を残す玉虫色の妥協の産物であった。サンフランシスコ平和条約は、連合国側の占領を終わらせるという当面の目的のために領土の最終的帰属を曖昧にし、日ソ共同宣言は、国交正常化という喫緊の課題を解決するために領土問題の抜本的解決を先送りした。これらの外交的選択が、結果として70年以上にわたる法的・政治的迷宮を生み出し、今日に至るまで解決の糸口が見えない状況を作り出しているのである。
第4部 国家の主張の対比
北方領土問題を巡る議論は、日本とロシアがそれぞれ依拠する歴史認識と法解釈が根本的に異なるため、しばしば平行線を辿る。両国の主張を並べて比較検討することで、紛争の構造的・論理的な対立点がより明確になる。この対立は、単なる領土の奪い合いではなく、国際法秩序の根幹に関わる二つの異なる世界観の衝突でもある。
4.1. 日本の主張:固有の領土、不法占拠、二国間条約の優位性
日本の主張は、歴史的正当性と国際法の原則、特に二国間条約の遵守を基盤としている。その論理構成は以下の要素から成り立つ。
固有の領土であること :北方四島は、1855年の日魯通好条約によって平和裏に国境が確認されて以来、一度も他国の領土となったことがない、日本固有の領土である 。これは、暴力や威嚇によって獲得した領土ではなく、歴史的かつ平和的に日本の主権が確立されていた領域であるというのが大前提である 。したがって、連合国が第二次世界大戦中に掲げた「領土不拡大の原則」(大西洋憲章、カイロ宣言)に照らせば、ソ連による占領は正当化できない 。
不法占拠であること :ソ連による四島の占領は、複数の国際法違反を伴う不法な行為である。第一に、当時まだ有効であった日ソ中立条約を一方的に破棄した対日参戦は、条約遵守義務(pacta sunt servanda )に反する背信行為である 。第二に、実際の占領行為は、日本がポツダム宣言を受諾して降伏の意思を明確にした後に行われており、正当な戦闘行為の結果とは言えない 。
ヤルタ協定の無効性 :ロシア側が占領の根拠とするヤルタ協定は、日本が参加していない米英ソ三国間の秘密の取り決めに過ぎない。したがって、日本を法的に拘束するものでは全くない 。この協定が領土の最終的処理を決定する法的効力を持たないことは、協定の当事者である米国政府も1956年に公式見解として表明している 。
サンフランシスコ平和条約の解釈 :日本は同条約で「千島列島」を放棄したが、前述の通り、歴史的経緯から北方四島はこの「千島列島」に含まれない 。また、仮に解釈に疑義がある場合でも、国際法の原則として、権利を放棄する条文は、放棄する側に有利に(つまり、より狭い範囲で)解釈されるべきである 。さらに、ソ連は同条約の署名国ではないため、この条約に基づく権利を主張することはできない 。
これらの論拠に基づき、日本政府は「北方四島の帰属の問題を解決して平和条約を締結する」という一貫した方針を掲げている 。
4.2. ロシアの主張:第二次世界大戦の不可侵な結果と国際的合意
ロシアの主張は、第二次世界大戦の勝者として形成した戦後国際秩序の正当性を基盤としている。その論理は、戦前の二国間条約よりも、大戦の結果を決定づけた連合国間の合意と既成事実を優先するものである。
第二次世界大戦の結果であること :北方領土のソ連への帰属は、第二次世界大戦の正当な結果であり、この結果は神聖かつ不可侵である、というのがロシアの根本的な立場である 。これは、侵略国であった日本に対する正当な懲罰であり、連合国の一員として多大な犠牲を払ったソ連への正当な報酬であるという歴史認識に基づいている。したがって、日本はこの戦後の現実を受け入れるべきであると主張する。
ヤルタ協定の正当性 :ヤルタ協定は、連合国の首脳が合意した公式な国際文書であり、ソ連への領土引き渡しの政治的・法的根拠を形成するものであると位置づけている 。日本が当事国でないという主張に対しては、これは戦争の戦後処理を決定する連合国全体の意思であり、敗戦国である日本はそれに従う義務があると反論する。
サンフランシスコ平和条約の解釈 :ロシアは、日本が同条約で「千島列島」のすべての権利を放棄した事実を重視する。そして、地理的・歴史的に見て、北方四島は「南千島」であり、日本が放棄した千島列島の一部であると主張する 。ソ連が条約に署名しなかった点については、日本が国際社会に対して一方的に権利を放棄した以上、その土地が無主地になるわけではなく、ヤルタ協定に基づきソ連が領有権を持つことは自明である、という論理を展開する。
1956年共同宣言の最終性 :ロシアは近年、1956年の日ソ共同宣言を、領土問題に関する唯一かつ最終的な提案として提示する傾向が強い。すなわち、平和条約締結後に歯舞・色丹の二島を引き渡す用意はあるが、それは日本が国後・択捉を含む四島全体の主権がロシアにあることを認めることが前提である、という立場である 。四島の帰属問題そのものが交渉対象であることを認めた東京宣言などは、その後の情勢変化によって意味を失ったと見なしている。
表2:北方領土問題に関する日ロの法的・歴史的主張の比較
この対立構造を分析すると、両国が全く異なる法哲学と歴史観の土台に立っていることがわかる。日本は、1855年の日魯通好条約という平和的な二国間合意を起点とし、その後の国際関係も条約法に則って規律されるべきだという、法秩序の継続性を重視する。一方、ロシアは、第二次世界大戦という世界史的断絶を起点とし、その結果として生まれた新たな国際秩序(いわば「ヤルタ体制」)が、それ以前の条約関係を上書きするという、現実主義的な世界観に立脚している。この根本的なパラダイムの違いこそが、70年以上にわたる交渉を経てもなお、両者の主張が交わることのない根源的な理由である。
第5部 統合的分析と論理的帰結
これまでの歴史的経緯、国際法の理論、そして両国の主張の分析を踏まえ、当初の問いに立ち返り、論理的な結論を導き出す。すなわち、「北方領土を占領したソ連は消滅したにもかかわらず、なぜ別の国であるはずのロシアがその領有権を主張し続けるのか。それは単に日本が戦争に敗れたから言いなりになるしかないという『力の論理』なのか」という核心的な疑問に対する回答である。
5.1. 再び問う:ロシアは「別の国」か? 法的視点と政治的視点の分離
結論として、国際法の観点からは、ロシア連邦はソビエト連邦とは「別の国」ではない。政治体制、イデオロギー、国名、領土の範囲が劇的に変化したことは事実であり、政治的・社会的には全く新しい国家と見なすことができる。しかし、国際法上の人格においては、第2部で詳述した通り、ロシアはソ連の地位を継承した「継続国」として国際社会に承認されている。
この「継続国」という法的地位は、ソ連崩壊という未曾有の事態において、国際秩序の安定を維持するために選択された、極めて地政学的な配慮に基づく措置であった。この法的擬制により、ロシアは国連安保理常任理事国の議席という特権的な地位を継承した一方で、ソ連が抱えていた北方領土問題を含む国際的な権利と義務も一体のものとして引き継ぐことになった。
したがって、「占領した国(ソ連)は消滅したのだから、その主張も消滅するはずだ」という論理は、国際法上の国家の同一性という観点からは成立しない。日本は、全く新しい第三者と交渉しているのではなく、国際法上は同一の人格を持つ相手と交渉を継続している、というのが法的な現実である。
5.2. 国際法の役割と地政学的現実の相克
では、ユーザーの問いの後半部分、「日本が戦争に負けたから何でも言いなりだということなのか」という点についてはどうだろうか。これは、国際法の限界と地政学的な力の現実を鋭く突いた指摘である。
ロシアの主張は、単なる「力の論理」だけで構成されているわけではない。第4部で見たように、ロシアは「第二次世界大戦の結果」や「ヤルタ協定」といった、独自の法的・歴史的解釈に基づいた論理を構築している。そして、その主張を維持する法的枠組みとして、「継続国」の地位を利用している。
しかし、その主張の根源、すなわち1945年の北方領土占領そのものが、日ソ中立条約を破るという「力の行使」であったことは紛れもない事実である。そして、その後の70年以上にわたる実効支配の継続は、ロシア(ソ連)が地域における軍事大国であり、国連安保理常任理事国として国際政治に絶大な影響力を持つという地政学的な現実によって支えられてきた。
国際法には、残念ながら、主権国家、特に大国に対してその意思に反して領土の返還を強制するような実効的な執行メカニズムは存在しない。国際司法裁判所のような司法機関も、紛争当事国の双方がその管轄権に同意しなければ、審理を行うことさえできない。北方領土問題のように、戦後の法的文書の解釈が曖昧で、双方がある程度の法的根拠を主張できる場合、最終的には当事国間の交渉、すなわち外交力と国力の駆け引きに委ねられることになる。
したがって、「言いなり」という表現は正確ではないかもしれないが、日本が直面しているのは、法的な正当性を主張するだけでは解決が困難な、地政学的な力の均衡という厳しい現実である。ロシアが物理的に支配している現状を覆すには、ロシア自身が返還に応じる何らかの戦略的・経済的利益を見出すか、あるいは国際情勢が劇的に変化するしかない。
5.3. 結論:争点のある占拠に端を発し、法的に継承された紛争
本報告書の分析を統合し、当初の問いに対する最終的な回答を以下に要約する。
国際法上、ロシアはソ連と「別の国」ではなく、その国際法上の人格を継承する「継続国」である。 この地位は、ソ連崩壊時の国際的な安定を優先する地政学的判断によって確立された。
したがって、ロシアは北方領土を新たに「奪った」のではなく、その主張と物理的支配を、前身であるソ連から法的に「継承」した。 紛争の当事者としての法的同一性は、ソ連からロシアへと引き継がれている。
この紛争の真の核心は、ロシアの継承権の有無ではなく、1945年におけるソ連による占拠行為そのものの合法性にある。 日本は、日ソ中立条約違反などを根拠にこれを「不法占拠」と主張する。一方、ロシアは、連合国間の合意に基づく「第二次世界大戦の正当な結果」であると主張する。この根本的な対立が問題の根源である。
現状が固定化している理由は、法的な曖昧さと地政学的な力の現実が複合的に作用しているためである。 サンフランシスコ平和条約や日ソ共同宣言といった戦後の法的文書は、両国が自らの主張を維持できるだけの解釈の余地を残している。そして最終的には、ロシアが当該地域を物理的に支配し、かつ国際社会における大国としての地位を保持していることが、現状維持を可能にする決定的な要因となっている。
ユーザーが感じた「力の論理」という直観は、この紛争の側面を的確に捉えている。しかし、その力は、むき出しのまま行使されているのではなく、「国家の継続性」という国際法上の概念と、「第二次世界大戦の結果」という独自の歴史的正当性の主張によって、法的な装いをまとっている。北方領土問題とは、国際法違反という歴史的な行為に端を発し、その後の国際法秩序の変遷と地政学的な現実の中で、解決の糸口を見失ったまま継承され続ける、極めて複雑な法的・政治的紛争なのである。